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(千葉県鋸山日本寺の大仏・薬師瑠璃光如来=座像の石仏としては日本一の大きさ)
 今、地球には80億人以上の人たちがおり、それぞれに個性ある生き方をしている。『今しかない』第7号の「拝啓 お元気ですか」に描かれた人々もまた、懐かしい思い出の中に蘇った。前回の続きの紹介です。一部は要約してあります。
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「職員から」の続き

☆入院した時親しくなった方へ 入院中、行動を共にして何かと優しく接してくれ、退院後も会えばすぐ入院中の頃と同じ気持ちになり、放談回顧することができ、忘れがたい感激でした。ある日、実家のある秋田へ引っ越しされてしまった。足の具合はどうか、話が好きで明朗な方だったので、近所の方とうまく付き合い、元気でい毎日を送っていると思うこのごろです。もう再会することはないでしょう……。(70代、女)

☆亡きおじいちゃん、おばあちゃんへ 4年前におじいちゃん、3年前におばあちゃんが亡くなりました。おじいちゃんは亡くなる直前まで、おばあちゃんのお見舞いに車で行ってました。天国でもおばあちゃんの面倒を見てますか。おいしいお酒をもらったから届けたいです。(昭和51年、SN

☆タムラさんへ 北海道から小学5年生の時群馬に転校してきて、4年間親友でしたが、また北海道へ転校してしまいました。その友は縁があって35歳の時、群馬の人と結婚し男児を授かりましたが、実家(札幌)に帰ってしまいました。それから私も子育てで忙しく連絡が取れず、思い出します。(昭和29年、女)

☆お元気ですか? 昔はよく話し、遊びましたね。あなたは人懐っこく、よく笑っていましたね。その明るさにつられ、こちらも安心してあたたかい気持ちになっていたことを思い出します。もう10年以上お会いしていませんが、どこかで笑って過ごしていることを切に願っております。またいつか再会し、あの頃の話をゆっくりできたら嬉しいです。(60代、女)

☆クロカミ様お元気ですか (ネットで知り合った四国の看護師の方です)お互い医療、福祉関係の仕事で大変だと思いますが、コロナに負けずに頑張っていきましょう。(昭和59年、男)

☆担任のフミ先生へ 小学1、2年生の時、担任の先生だったフミ先生。音楽と美術しか取り柄のない私に「自分の得意なことを伸ばせばいいんだよ」と声をかけてくださいましたね。先生のその言葉のおかげで、今私は特技を生かした仕事に就き、毎日やりがいのある職場で働いています。今の自分があるのは先生のおかげです。本当に感謝しています。ありがとございます。小学校の横を通る度に「先生元気にしているかな」と考えているので、どこかでまたお会いしたいです。(20代、女)

  ☆伯母さんへ 大変ご無沙汰しておりますが、元気にお過ごしでしょうか。子どもの頃はよく遊びに行って、いろいろとお話したり「茶つみ」の手遊びを一緒にしてくれたり、おいしいものも、たくさんごちそうになりました。楽しい思い出ばかりで、とても懐かしく思います。伯母さんは今施設で生活されているけど、またいつかお会いしたいです。私のこと、もしかしたら分からないかもしれないけど、お会いできた時にはまた「茶つみ」をやりましょう。それまで、どうかお元気で。(20代、女)

☆お元気ですか あなたはいつも温かく相談に乗ってくれたり、大事なことを教えてくれました。時が経ち、お互いに異なる環境で頑張っています。あの時、知識や技術ももちろん学びましたが、それ以上に専門家として、そして人として大事なものを学びました。知識や技術、科学性といったもの以上に、大切なものをご教授いただいたと思います。また一緒に食事でもしましょう。(40代、女)

☆アレクサイ様お元気ですか (4、5年前ネットで知り合ったウクライナ人)戦争が終わることを望んでいますが、開戦から1年経過してもウクライナの住宅が攻撃されています。今年こそは平和な日々が戻ることを願っております。(平成5年、男)

☆書道の先生へ 小学4年生から6年生まで担任で、毎週日曜日に書道も教わっていた先生。忘れ物をすると、家に取りに行きなさいと言われ、取に行ったことや書道でもなかなか合格がもらえず、遅くまで書いていた記憶があります。今思えば熱心な先生で、厳しさの中にも優しさがあった大好きな先生でした。実家に帰省した際、引っ越しされたようで、書道教室がなくなっていました。今どうされているのだろう。お元気でいられるのだろうかと、時々思い出されます。(20代、女)

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「地域の人たち、協力者からの寄稿」

☆チエコ様へ 久しぶりにチエコさんの声を聞きたいのですが、(耳が遠いとのことで)手紙にしてみました。私のことは忘れてはいませんか。私の声を思い出しながら読んでみてください。私も同じ歳ですので、耳も遠くなり、歩くのも大変になりました。それでも畑に行き野菜や山菜を採るのが大好きです。早く雪が消えて、その季節が来るのを待っています。チエコさんも健康に気を付けてください。命ある限り頑張りましょうね。お互い元気でいられることを祈って。(昭和7年、小川町・女)

☆旅立った貴方へ 貴方は昨年遠くへ旅立ってしまった。30年来の“戦友”である貴方は事あるごとにポジティブに応え、何度も背中を押してくれた。「そりゃあ、ダメだ」と一喝されたこともあった。ストレートにものを言うと、心に響くこともあるが、反発を買うことも多い。話しの手順・段取りが必要だと釘を刺された。貴方とは終電を越えて飲んでしゃべって、何度カプセルホテルに飛び込んだことだろう。最後の「カプセル」から2年近く、コロナ禍の下、会わずじまいになっていた中での訃報。感染再拡大の中、世田谷に足を運んだ。ひつぎの中のあなたは、おだやかで笑っているようにさえ見えた。熱狂的(?)なファンだったタイガースの帽子をかぶり、斎場に僧侶はいないが、『六甲おろし』が流れていた。貴方らしい会だった。一寸遅れたけれど一言「いつもありがとう」。(昭和28年、小川町・YT

☆散歩でつながれた楽々会のみんなへ 「おはよう」。朝9時、元気なみんなの声。寒い日も小雨の火も5人で歩く楽々会。コロナ禍で家に閉じこもりがちな生活の中で、たった30分の散歩。たわいのない話や笑いにその日の気持ちが充実し、癒されるのです。1年前に夫が亡くなり、心にぽっかりと穴があきました。その穴をこの散歩が埋めてくれるのです。この地に住み、良き友人に会えてよかったと思っています。朝、これから歩き、みんなに会えると思うと、力が湧いてきます。みんなありがとう、これからもよろしくね。(昭和27年、女)

☆今は亡きヒロシちゃんへ 桜の花が満開のあの日(昭和27年4月7日)、熊本県阿蘇郡で私の2人目の弟ヒロシが生まれた。たらいから足がはみ出し、お産婆さんが「大きか赤ちゃんばい」といった。次の日、私は小学校の入学式。赤いランドセルにセーラー服を着て、同級生のお母さんが一緒に連れて行ってくれたとよ。母ちゃんが来られなかったけど嬉しかった。母ちゃんは産後の肥立ちが悪く、高熱が続いて高血圧腎臓病を患い、赤ちゃんや私たちを残して死ぬかもと何度も思った。私はヒロシちゃんの子守りと炊事洗濯の毎日で、行きたかった学校も休むことになった。母ちゃんが気分のいい時はヒロシちゃんをおんぶして学校へ行ったね。給食の時、先生がヒロシちゃんの分もくれた。母ちゃんもだんだん元気になって6年生の時には学校を一日も休まず、卒業できた。3年生の時には出席日数が足りず、落第の話も出たが、親の看病・介抱をしているというので、4年生に上がれたそうです。

 明治38年生まれの父ちゃんは、昼間の疲れがあるのに夜は勉強を教えてくれた。感謝しています。字が下手な私は「丁寧に書け」とよく怒られた。私が看護学生の頃、ヒロシちゃんは「相撲部屋からスカウトが来たが、どう思うか」と手紙をくれたね。あの時反対したのは、勝負に負けた姿を想像すると、かわいそうで見ていられないという思いからでした。ごめんね。ヒロシちゃんは高校を卒業して上京、江戸川の「養老の滝」へ入社し、10年後には店を出す、早く支店長になると意気込み十分で、願い通りに店を出したね。結婚もし双子(男と女)の父親になった。ヒロシちゃんは中学、高校と柔道のキャプテンをやっていて、4段を目指した40代の頃は江戸川の柔道のコーチをやり、50代のころには井上康生さん(シドニー五輪金メダリスト)が道場に会いに来た写真が残っていました。女の子のアヤノも大学で個人優勝を数回もしたと連絡をくれた。すごいよね。写真もありがとう。ヒロシちゃんが亡くなって早5年になりますね。もうすぐ桜が咲く季節がやってくるよ。ヒロシちゃんの季節がね。(昭和20年、飯能市前ヶ貫・女)

☆拝啓 お母ちゃん そちらでも元気に過ごしていますか。もうすぐ丸8年が経ちますね。お父ちゃんとは再会できましたか。生まれ変わってもお父ちゃんと添いたいという願い、きっと叶えられたと確信していますよ。私はこちらで介護施設の助手として働き始めたところです。週3回、午前中だけですが、90歳代のおじいちゃん、おばあちゃんたちの中で忙しく働いています。視力の弱いヒサエさんは、食事の時に少しずつごはんやおかずを口に入れてあげます。すると、一口一口に「ありがとう」と言ってくれます。大したことないのに、もったいないなあ、愛おしいなあって思います。(お母ちゃんにはしてあげなかったね)

 人一倍寂しがりやのヒデコさんは、手を取って傍らに座ってお話の相手をさせてもらっているのよ。昔の思い出を繰り返し聞かせてくれます。そんなとき、ヒデコさんはとてもやさしい顔でにっこりしてくれます。(お母ちゃんも若いころのことを聞かせてくれたよね。一寸得意気な顔をしていたね)ヤエさんは昔から私と知り合いだったと思い込んでいる。私の姿を見て「丁寧な仕事をしてくれて偉いねありがとう。お茶のみにきてん」とほめてくれます。(お母ちゃんから「もっと丁寧に」と言われていたのに、おかしいね)

この仕事をしながら見つけたことがあるんだよ。どの人もみんな山あり、谷ありのかけがいのない人生を懸命に生きておられるということ。それはとても尊いことなのだということ。だから施設で出会うおじいちゃん、おばあちゃんに尊敬の思いを強く持つようになってきました。そして、そちらに行ったら、再びお母ちゃんとお父ちゃんの娘として生まれたいなあ。その時まで介護の仕事、もう少し頑張りますね。(昭和28年、富山市・女)

☆今、私が感謝したい人 夫の両親です。私も気に入らないことがあると、反発もしましたが、2人とも大きな心で見守ってくれました。父は夫の妹が里帰り出産でお世話をした時、「ありがとう、ご苦労様」の言葉と一緒に金のネックレスをプレゼントしてくれました。母も子どもたちの洋服を魔法使いのように、たくさん作ってくれました。もっと嬉しかったことは、とてもおしゃれな母が自分の洋服と一緒にもう少しおしゃれしなさい」と素敵な洋服を買ってくれたことです。私が今ここにいられるのは、両親と叔母のおかげと思っています。知人からこんな言葉をいただきました。「縁をいただいたのだから、その人たちに自分のできることで恩を返すことだな」と。難しいことですが、家を守ることで私がしなければならない恩返しかなと思っています。(昭和22年、飯能市岩沢・女)

☆拝啓お元気ですか つい先日、あたりが暗くなった時のこと、家の前で話し声がしました。「なつかしいわ。ここがM先生の家だなんて」「あなた、Sさんよ。覚えている?」「ええと、1年生の時に教えたS君のお母さん?」「名前ちゃんと覚えていてくれて、うれしいわ」 たしか2つ目の学校で、1年生の担任をした。1年生にしては背の高い子で、性格は素直で明るかった。なぜか、家のある場所まで思い出した。40年以上が経っている。管理職としての4校をはじめ、生命学園や寺子屋といった日曜学校なども40年近くやってきた。延べ5千人以上の子どもたちを担任してきた。夜になると、望遠鏡を担いで地区を回ったり、夏休みには地区ごとに車に乗せ、高麗川で遊んだ。校長になってからは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を全員暗誦しようと取り組んだ。休み時間、校長室の廊下ア暗誦する子どもたちでごった返した。朝礼時の暗誦は壮観だった。あれから22年、82歳になった。時代の流れに取り残されそうな今日です。かろうじてユーチューブにしがみついている有様です。今、時代が変わろうとしています。ユーチューブの中にそれらを発見することができます。あと15年生きられたら、それがかなうのですが……。(82歳、坂戸市・女)

  ☆叙情歌 最近、地域の「演奏、合奏」では叙情歌を選曲している。例えば「故郷」「千曲川」である。心打つ素晴らしい歌詞に加え、再三信州・長野地方を訪れ、あの牧歌的な自然環境の良さを味わってきたからで、今も「穂高」「安曇野」「上高地」が思い浮かぶ。自分にとって心の財産でもある。卯年を迎えた私にとって、今年も地域の皆さんと一緒に楽しく歌えることを目標にしたい。(飯能市永田台・男)

☆短歌  悠久の高千穂峡の水しぶき真名井の滝しずくとなりて(坂戸市・MM)
     十年をひたすら努めた菊作り銀賞の栄ついに輝く(坂戸市・M・S)
     九州路七十過ぎの再会は言葉にならずただ抱きあうのみ(同)

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(鋸山日本寺の百尺観音) 
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「うわー!!『人って一人では生きていけない』と言われますが、今回ほどそう思わせられたことはありません」。『今しかない』第7号の編集後記の書き出しです。編集を担当した友人は集まった言葉の数々を見て、こんな感想を持ったようです。私も同感です。人は瑞々しい感覚を持ち続けているのです。それが生きる喜びだと思うのです。(ブログ筆者)