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(ひっそりと咲くアザミ) 
 童話作家で詩人の宮沢賢治が亡くなったのは
1933(昭和8)921日で、37歳の生涯だった。ことしで没後90年になるのを記念して映画『銀河鉄道の父』(成島出監督)が制作された。このクライマックスは、息を引き取る賢治(菅田将暉)を抱きかかえて、父親の政次郎(役所広司)が、『雨ニモマケズ』の詩を息子に語りかけるように、叫ぶように口ずさむシーンだ。映画は門井慶喜の直木賞を受賞した同名の小説(講談社)が原作だが、小説にこうした場面はなく独自に創作したのだろう。映画は小説を超えることができたのだろうか。 

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『雨ニモマケズ』の詩が見つかったのは、賢治が亡くなった翌1934(昭和9)年といわれる。この年の216日、東京で「宮沢賢治友の会」が開かれ、出席した弟の宮沢清六が遺品として革トランクを持参した。参加者の一人が革トランクのポケットにあった黒い表紙の手帳を見つけ、会場で回覧した。この手帳の中に、後年有名になる詩が書かれていたのだ。賢治が生まれた岩手県の地元紙、『岩手日報』は、この7カ月後の921日付夕刊でこの詩を掲載、賢治という存在が世の中に知られるようになっていく。

だが、1934年 ~35年にかけて出版された最初の「宮沢賢治全集」(文圃堂)にはなぜか掲載されていない。それは賢治の生前、手帳(病床手帳。経文、御題目、詩片などがメモされ、この詩は1931113日に書かれた)の存在を政次郎や清六ら家族も知らず、このような詩を書いていたことに気が付いていなかったからとみられる。

門井の原作では、賢治が亡くなって2年後の1935(昭和10)8月、3回忌を前に準備を兼ねて他へ嫁いでいた次女のシゲが里帰りし、政次郎が一緒にやってきた3人の孫たちに岩手日報に掲載された『雨ニモマケズ』の詩の切り抜きを取り出し、朗読してやるストーリーになっている。

「孫たちは全員、つまらなそうな顔をしている。おのれを律せよ、りっぱな人間になれというような修身道徳をおしつけられたと思ったのだろう。そうでない。そうではないんじゃ。これは伯父さんが病気のとき、ふとんの上に正座して、手帳に書いたものなんだ。私はその書くところを見た。そのときは私も『病気に負けず、人間として完成したい』というような道徳的な意味だと受け取ったんだが、いまはちがう。しかつめらしい話でねぇべ。伯父さんはただ、鉛筆を持って、ことばで遊んでいただけなんじゃ」

賢治がどんな意味を込めて、この詩を書いたのかは分からない。「戦争へと向かう時代には『滅私奉公』の読み方があり、戦後は、一個人としての理想の追求といった読み方への傾きもあった。しかし読み方がどうであれ、書かれた文言そのものと、それが発する響きが変わることはない」(高橋郁男『渚と修羅』コールサック社)。同感である。

没後90年、現代では賢治とその作品は広く知られている。だが、映画の中で森七菜演じる妹(長女)のトシ(結核のため24歳で早世)に「日本のアンデルセンになるって言っていたのに、元気を出して書きなさい」と励まされるシーンがあるように、生前の賢治は無名だった。オランダ出身の画家ゴッホが生前、一枚の絵も売れなかったのに死後世界的な人気画家になったのと同様、賢治も死後急速に知られる存在となった。

 夢を追い続けた賢治を支えたのは、父親の政次郎だったことは言うまでもないだろう。父と息子の関係はなかなか難しい。政次郎と賢治の間にも様々な葛藤があったに違いない。それでも政次郎という理解者がいたからこそ、賢治の才能が開花したのではないか。最後に映画の感想を一言。主演の役所の演技は圧巻だった。賢治役の菅田にも好感を持った。祖父喜助役の 田中泯もただ者でないと感じた。政次郎は質屋の主人だが、役所が演じた政次郎(特にラストシーン)が学者のように見えたのが少しだけ気になった。(これはあくまで私の独断と偏見です)

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(ヤマボウシが満開)